■企画展「草野心平と粟津則雄」(1)

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左が「草野心平 東京都練馬区下石神井、御嶽神社社務所にて 1949年」

右が「粟津則雄 1970年頃」

1948年11月、詩人の草野心平(1903〜1988)は雑誌『創元』(創元社)第2輯(集)に、詩「わが抒情詩」を発表した。

くらあい天(そら)だ底なしの。

くらあい道だはてのない。

どこまでつづくまつ暗な。

電燈ひとつついてやしない底なしの。

くらあい道を歩いてゆく。

で始まる詩は、いまだ戦後の混乱が収まらない暗い世相を漂わせながら進んでいく。価値観が大きく変わったことへの戸惑いも表出しているが、それらを理由に諦め切って終わるのではない。

ああああああ。

おれのこころはがらんとあき。

はひつてくるのは寒さだが。

寒さと寒さをかちあはせれば。

すこしぐらゐは熱がでる。

すこしぐらゐは出るだらう。

と、ほんのわずかでも前に踏み出そうとする。そして、「お茶の花ほどのちよつぴり」な「ひかり」が咲いて、それがやがては「大光芒にもなるだらう。」という一節には将来への希望が感じられる。

当時、二十一歳だった粟津則雄(1927〜、フランス文学者、評論家、当館名誉館長)は、この詩に「全身を揺り動かされるような」感銘を受け、一読しただけでそのほとんどを諳(そら)んじてしまう程だったという。

粟津は、現在の愛知県西尾市吉良町に生まれた。幼少期から文学、美術、音楽に親しみ、旧制京都府立第一中学校(現洛北高校)在学の頃、自身も友人と始めた謄写版刷りの雑誌に小説や評論を寄せていた。

蛙の詩によって草野という詩人の存在を知るのもこの頃のことだが、詩集が容易に入手できる状況ではなかった。

戦況悪化のためほとんど授業はなく、軍需工場での勤労動員が続く。右翼系の級友たちとの論戦では文化や論理を主張し、国賊とののしられることもあった。

1945年4月、粟津は旧制第三高等学校(現京都大学)文科乙類に入学。

敗戦後の9月から授業が再開しても気に入った授業にしか出席せず、荒れた生活を送っていたが、1947年5月、三校創立記念祭の講演会に講師として評論家の小林秀雄(1902〜1983)を招いた際、彼を囲んで二夜にわたり会食し、その談話や人柄に魅惑されている。小林は雑誌『創元』の編輯人でもあった。

1948年4月、東京大学文学部フランス文学科に入学した粟津は、フランス象徴詩を専攻する。

国内外の作家、批評家から刺激を受けながらも、自己表現の動機と方法とをつかみかねていて、様々な同人誌からの誘いを断わり、きわめて孤立した生活を送っていた。

粟津が冒頭の雑誌『創元』」を手にするのはこの頃である。彼の「まさしくがらんと穴があきみょうちきりんにいたんでいた」心に、詩「わが抒情詩」は「実にしっくりと」受け入れられた。

ヒステリックな感傷のない、「夜明け前のような、透明な明るさ」、そして「あたたかく男らしい心の動きに」快感をさえ感じた粟津に、草野という詩人の輪郭がはっきりと立ち現れる瞬間でもあった。

(渡辺芳一=専門学芸員)

小川町の市立草野心平記念文学館=電話(83)0005=では来年2月24日まで、この二人の交友を紹介する企画展「草野心平と粟津則雄」を開催中。

文学館の開館時間は午前9時から午後5時(入館は同4時半)まで。観覧料は一般440円、高校・専修・高専・大学生330円、小・中学生160円。月曜日休館(来年1月13日、2月24日は開館し、1月14日休館)。